今日の聖書一日一章からのメッセージです
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 イザヤ書 46章 「あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは、背負って、救い出そう。」 (イザヤ書 46:4) 前章から続くイザヤの預言です。彼は、“主は「わたしが主である。ほかにはいない。」と言われる”と語り、“主に聞け”と迫ります。しかしきよい主のみことばは罪にまみれた人の耳には受け入れがたいものです。人は自分の思いどおりに答える偶像を造りそれに頼ろうとします。バビロン人はベルとかネボという偶像を造りました。しかしそれは人の作ったもの、いざという時には頼りになりません。世界で最も立派な王国だと言われたバビロンも衰え、敵に攻め込まれて滅びます。そのとき彼らはベルやネボなどの偶像を担いで逃げだします。しかしそれは重荷となるだけで何の助けにもなりません。その偶像と対比して、“イスラエルの主は生ける神、イスラエルを養い育て、助け守ってくださる御方だ”とイザヤは語ります。主はイスラエルを生み、腕に抱いて育み、背に負って育ててくださいました。そして、彼らが衰え、一人では立てなくなっても、主が彼らを背負って、救い出す、と言ってくださいます。この主は、全能者です。主の御許にいれば安全です。そして愛に富んだ真実な御方で、主ご自身が主の民を背負い、最後まで守ってくださるのです。その主が今、私たちに向かって、「あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは、背負って、救い出そう。」と言ってくださる御声が聞こえます。なんという幸いでしょうか。「主よ。感謝します。主よ。背負ってください。」と祈りました。 唄野隆 |