ローマ書 12章 「私たちも、キリストにあって一つのからだであり、・・・。」 (ローマ 12:5) パウロは、ここまでのところで、救いは神の恵みによって与えられ人は信仰によってそれを受けるのだという福音を語り、律法の行いによって救いを得ようとして退けられたユダヤ人をも主はついには救われることを示しました。そのうえで、彼は、この救いにあづかった者の歩みについて語ります。「こういうわけですから」という書き出しは、それまで語ってきた福音の全体に基づいて、こんな救いを与えられたのだから・・・、という意味でしょう。その歩みは、まず、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」という勧めに従って、自分の生活全体を、自分のものとするのでなく、主のものとして、主にささげることから始まります。自分はだれのものかという認識がその人の生活を決めるのです。自分のものだと思えば、自分の利益や名誉を求める生き方を生み出します。自分は神のものだという認識が、神の正義やきよさ、愛を目指す生活を育てるのです。生きたささげものですから、勝手に祭壇を下りることがあります。だから、ささげ直すことの繰り返しと言うこともあります。しかし、それでもこの世に調子を合わせず、心の一新によって変えられ続け、主のものとされていきます。その歩みは、ひとり正しい道を歩む歩みではありません。主の民の群れとしての歩みです。ですから、自分を無にしてへりくだり、分をこえて他のメンバーの領域を侵さず、彼らを尊び、愛し、自分に与えられているつとめを果たして、皆でキリストとのからだとして完成される歩みなのです。
唄野 隆 |