ローマ書 6章 「このように、あなたがたも、自分は罪については死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスあって生きた者だと、思いなさい。」 (ローマ 6:11) パウロは3章で、律法が来ると罪が示され、律法違反が増えたように感じられるが、神の愛は罪を圧倒し、違反が増し加わるとき、それを覆って神の恵みが満ち溢れるのだ、と語りました(5:20)。しかし、そう言うと、不信者たちは、恵みが増し加わるために罪の中に止まるのがよいのか、と反論してきます。パウロは、そういう反論を「絶対にそんなことはありません。」と一蹴し、信仰の世界の深みを語ります。“イエスさまを信じるとき、その人はイエスさまにつくバプテスマを受ける、イエスさまと一つにされるのだ、そのイエスさまは、「ユダヤ人の王」として(ヨハネ19:19)、つまり、世界のすべての人々を代表する者として選ばれたアブラハムの子孫ユダヤ人を代表する立場で(創世記12:3)、すべての人の罪を背負って十字架につけられた、そして三日目に死人の中からよみがえり、天の神さまのところへ昇り、永遠のいのちを受けられた、あなたがたはそのイエスさまとひとつにされたのだ、だからあなたがたはイエスさまにあって罪に死に、イエスさまとともに神に対して生きるのだ”と語ったのです。私たちは罪に死んだ者であり神に生きる者なのです。罪に止まることなどできません。現実の経験ではきよくなったと感じられなくても、自分できよくなろうと努力するのでなく、自分は罪に死んだ者、神に対してはキリストにあって生きた者だ、と思うことが、きよい生活への第一歩となると言うのです。主はきよめてくださいます。
唄野 隆 |