ローマ書 4章 「それは、彼が、割礼をうけないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。」 (ローマ 4:11,12) パウロは3章で、救いは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、と語りましたが、その実例を、ユダヤ人の先祖アブラハムによって示しました。主は、アブラハムを義しいとお認めになりましたが、それは、アブラハムが律法を守る行いを示したからではなく、主が、アブラハムの子孫は天の星のようになると言われたのを、彼が信じたからだと聖書は言います。主が語られる恵みのことばを、それは不条理だとか、自分はそれを受けるにふさわしくないとかつべこべ言わず、主を信頼し語られたお約束をそのまま信じて疑わないアブラハムを主は義しいと認められたのです。義しいというのは、あるべき姿にあることを示すことばです。主が恵みを注いでくださり、私たちは主を信頼して言われたことをそのまま受けて感謝しすべてをささげて主にお応えする、これが主の前での私たちのあるべき姿だというのです。ユダヤ人は律法の良い行いによって救いを得ようとしましたが、それは律法のよい行いで救いを買おうとする取引の道です。取引関係が神さまと人との間の正しい関係であるはずはありません。良い行いができなければ滅ぼされます。そこにはいつも恐れが伴います。アブラハムは、割礼が与えられる前、ですから律法が与えられる前に、信じて義と認められました。それは、主が割礼を受けている者をも、受けていない者をも、分け隔てなく信仰によって救ってくださるためでした。その主の恵みによって私も救われたのです。感謝して御名を崇めます。
唄野 隆 |