ローマ書 3章 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」 (ローマ 3:22) ユダヤ人の罪を示したパウロは、ではユダヤ人には何の価値もないのかという反論を予想してユダヤ人の優れた点を数え上げようとしました。しかし、最初の一つで十分だと思ったようです。それは、主が彼らに語りかけてくださったということでした。神さまのみことばを聞くということは他のすべてを覆い尽くす素晴らしい恵みなのです。しかし彼らも罪人です。人はすべて罪人なのです。しかし、その罪人が、神の恵みによって救われるのです。人は自分が何かを与えることによって相手から何かを手に入れようとします。神さまとの関係においても、良いことをすることによって認めてもらおうとします。律法を守って、救いを得ようとするのはそういういき方です。しかし、そういうやり方で神さまを完全に満足させることはできません。神さまのような絶対的な義しさ、きよさをもたれた御方に「それで十分。」と言わせるほどの義しさ、きよさを差し出すことは人の力をはるかに超えています。しかし、神さまは、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださり、イエスさまがその尊い御いのちをもって私たちの罪の贖いとなってくださって神さまが罪をさばく義しい御方であることが明らかになり、イエスさまを信じる者をお救いくださることによって神の深い恵みが現わされたのです。そして、人は主体的に自分が信じることによって、救いにあづかるのです。義とはあるべきすがたにあることを示すことばですが、これこそ本当に義しい救いです。
唄野 隆 |