今日の聖書一日一章からのメッセージです



堺大浜キリスト教会聖書一日一章

                      ヨブ記 24章

「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。」
                     (ヨブ記 24:1)

1節の「時」は終わりのさばきの時の時です。ヨブは神が世界の支配者であることを語っているうちに、神がさばきの時を定めておられることを思いました。しかし、同時に、神を知る者たちがその神のさばきの実現を見ていないということに気づきました。さばきの時があると言われているが悪を行いながらさばかれず栄えている者がいるではないか、と思ったのです。彼は、力に任せて、地境を移して他人の土地を自分のものとし、家畜など他人の財産を奪う者がいることを語りました。そして、“彼等から押しのけられた者たちは荒れ野の野ろばのような荒々しい生活に追いやられ、自分たちを追いやった悪人たちの畑を掠め、着るものもない裸で、みなしごを乳房からもぎとるような悪を行って、さらに悲惨な生活に追いやられていく、彼等は助けを求めて叫ぶが、「神はその愚痴に心を留められない」、人殺しと盗人と姦通する者となり、暗黒の中で悪を行い、呪われ滅びるが、神が力をもって暴虐な者を生き延びさせられる、彼等はしばらくは高められ、やがて消えうせる、ほかのすべての者と同じように刈り集められる”と語りました。善を行う者も、悪を行う者も、悪に引かれ、同じように滅びる、と言いました。確かにこれが現実です。しかしこれでは善を行う意味が見出せません。神のさばきが行われると教えられるだけでは不十分です。さばきを行われる神さまを親しく知るのでなければ、人は良い生活に進む力を得ることができないことを思います。

       唄野隆



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