聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」 (ゼカリヤ13:1)

今日のゼカリヤ書13章は、前半の6節までが世の終わりの時に神様がイスラエルの民を清められることの預言、後半の7節以降はその世の終わりの時に至る前の段階で、神様がイスラエルの民を厳しく選びわけられることについての預言となっています。
3節から6節では偽預言者がイスラエルの国からいなくなることが具体的な例を挙げながら預言されていますが、その背景には、バビロン捕囚の後、それが招いた恐ろしい結果を経験しながらも、なおイスラエルに偽預言者が現れ続けたということがあるようです。しかし、私たちにも自分が思っているだけのことを、主の御心として語っているようなことはないでしょうか。
6節の「両腕の間にある打ち傷」とは、偶像礼拝をする人達が恍惚状態になって自分の体を自分で傷つけた、その傷のことのようです。「私の愛人の家で打たれた傷です。」というのは、偶像礼拝にふけりながら、それまで預言者らしく振る舞っていた偽預言者が、口にする、苦し紛れの言い訳のようです。
7節の最初の行の「わたしの牧者」とは、救い主、キリスト、のことのようです。ですからこの7節では、キリストが仲間のユダヤ人に殺されること、その背後に神様の御手があることが言われているわけです。
8節から9節ではキリストを殺した罪のために、ユダヤ人が大変な苦しみを経験させられ、その一部だけが残されること。しかし、その一部はその苦難によって練り清められて心から神様を信じ、神様に従う、本当の意味での神の民とされることが預言されています。
私たちも、苦しみの中にあっても神様を信じ抜き、そうして神様との親しい交わりの中に生きる、本当の意味での神の民、とならせていただきましょう。

 中谷建晴




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