聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。」 (オバデヤ15) 今日はオバデヤ書です。この書物がどういう人物によって、いつ頃書かれたものか、はっきりしたことはわかりません。しかし、その内容から、紀元前586年に南ユダ王国の都エルサレムがバビロンの軍隊によって攻め滅ぼされた後のいずれかの時代の預言であろうと考えられます。 バビロンの最後の王様であるナボニダスは紀元前552年にヨルダン川と死海の東側の地域に軍隊を送りますが、おそらくは、その時に、ここで預言されている通り、エドムの国は徹底的な破滅を経験させられたであろうと考えられています。その後、バビロンも滅亡し、ユダヤ人はパレスチナの地に帰って来ますが、その時にはユダヤ人に敵対する勢力としてエドムの名前が挙げられることはもうなくなってしまっています。 3節では、エドムの高ぶった様子が描かれています。エドムの人々は主に海抜1,000メートルを越える高い所に住んでいましたので、自分たちは他の国から攻撃されても大丈夫だと思っていました。事実、南ユダ王国が滅ぼされ、エドムの北隣りのモアブやそのさらに北隣りのアモンという国々もバビロンに屈服させられた時にも、エドムは無事でした。しかし、そういう誇りもやがては徹底的に打ち砕かれるということがここでは預言されているわけです。私たちもこれがあるから自分は大丈夫だ、これまで大丈夫だったのだから、これからも自分は大丈夫な筈だ、と誇り、高ぶり、神様を恐れることをないがしろにし、困っている人、苦しんでいる人をさげすんでいるようなことはないでしょうか。 10節から11節には、エドムが神様からの裁きを受ける直接の理由として、エルサレムが滅ぼされる時に、それを喜んで見ていた、ということが挙げられています。具体的に手を下すことはなくても、その心が残酷な喜びで一杯であったことが大きな罪とされているわけです。神様は私たちの心の中の思いがどうであるかをご覧になるお方なのです。 目に見える形で罪と呼ばれるようなことをしていないからといって、自分の内側にどんなに残酷なもの、どんなに醜い、いやらしいものがあるかに目をつぶり、自分で自分を勝手によしとしてしまっていることはないでしょうか。 中谷建晴 |