聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。」 (ミカ5:7)

今日のミカ書5章では、やがて救い主であり、王であるお方が来られる時に、神の民が経験することが主に預言されています。
1節はやがてエルサレムが敵に包囲されることを預言したものです。「軍隊の娘」とはエルサレムに住んでいる人々を指した言葉ですが、エルサレムの中の生活が、力ずくで奪い奪われるような、平和とは言えない状況であったことが、この表現の背後にあるようです。
2節は救い主がどこに生まれるかということについての預言で、約700年後、イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになったことで成就しました。
3節の前半では、救い主がやがて生まれるのだから、神の民の苦しみもその救い主が来られるまでのことである、ということが言われているようです。そして、後半では、救い主が世界中に散らされたイスラエルの人々をパレスチナの地にもう一度集めるということが預言されているようです。
5節のアッシリヤとは、神の民に敵対する勢力のことを比喩的に語ったもので、「7人の牧者と8人の指導者」とは、多くの指導者が現れることをこれまた比喩的に語ったものである、と考えられます。救い主が来たあかつきには、神の民には多くの優れた指導者が起こされ、敵を破ることが、この5節と6節では預言されているわけです。
7節では最後まで残った神の民が「露」や「夕立」にたとえられていますが、それは7節の最後にあるように、人間の思惑によって動くものではない、ということを意味しているようです。
10節から11節では、救い主があらゆる人間的な自分を守る方法を取り去られること、また12節から14節ではあらゆる偶像礼拝を断ち滅ぼされることが預言されています。ですから、主につく者とは、自分の力で自分を守ることをやめ、またそういう自分で自分を守る生き方につきものの偶像礼拝を捨て、主にすべてを委ねる者なのです。そうしてこそ、15節であるように、主ご自身が守って下さることを経験して行くことができるのです。私たちは自分で自分を守る武器を自分の手の中に握ったままにしてはいないでしょうか。そして、それがために、主の御業を経験できないままになってしまってはいないでしょうか。

中谷建晴



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