聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「『それは十分の1と奉納物によってである。』」 (マラキ3:8) 今日のマラキ書3章では、救い主がやがてやって来られることが預言されると共に、神様を心から信頼することが命じられています。 1節から6節では、救い主、キリスト、が来られることが預言されています。ここでは、旧約聖書の中でしばしばそうであるように、2000年前に十字架にかかられるためにキリストが来られたことと、やがて世の終わりの時に圧倒的な力を持った王としてキリストが来られることの両方が重なり合う形で預言されています。 「わたし」とはイエス・キリストを、「わたしの使者」とはバプテスマのヨハネを指しています。ですから、1節は2000年前に救い主が、大工のヨセフの息子として来られた時のことが預言されているわけですが、2節から6節では世の終わりの時に圧倒的な力を持つ王として救い主が再び来られる時、厳しい裁きを下されること、そして神の民を徹底的に清められることが預言されているわけです。 7節から14節は、その神様の裁きを恐れ、神様の下に帰り、神様を信頼するように、との呼びかけです。8節から10節では、特に10分の1を捧げることが命じられています。盗みとは、人のものを自分のものとすることだけではなく、本来は自分のものでないものを自分のものとして持っておくことも含むわけですが、そういう意味で10分の1を捧げない者は盗みをしている、本来、神様のものであるはずのものを、自分のものとしていることになる、こう神様はおっしゃっているわけです。 13節から15節では、10分の1を捧げようとしない者の言葉が取り上げられています。そういう人達は結局は、自分の力で生きる、神様に頼っても仕方がないと思っている、ということがわかります。 10節から12節で言われているように、与えられているものの10分の1を神様のものとして捧げることは、神様に対する信仰の告白であり、祝福のカギになることなのです。 8節の最後では「10分の1と奉納物」と言われていますが、いやいやながら、義務としてではなく、10分の1にさらに加えて多くのものを神様に対する信頼と感謝の告白として喜んで捧げる者、そうして主の祝福に与かるがゆえにさらに進んで喜んで捧げることができる者とならせていただこうではありませんか。 |