聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」 (哀歌3:33) 今日の哀歌3章ではユダの国の経験した苦しみが作者一人の苦しみであるかのような形で語られています。 1節から18節では受けた苦しみの大きさが語られています。2節の「やみ」という言葉、6節の「暗い所」という言葉は、では、これからどうなって行くのかという明るい見通しが全く立たない状況に置かれていることを示しているようです。また、7節は心が重くて身動きできなくなってしまっていることを、8節は祈ることさえできなくなってしまっていることを語っているようです。皆さんの中にもそのような思いをしている方がいらっしゃるかも知れません。しかし、19節から21節で示唆されているように、もし今、この哀歌3章を通して、自分がそうだったということに気づくことができる、そこに脱出の道の第一歩があるのです。 そこから、22節から24節で告白されているように、どん底と思えるような経験の中でも実は支えていて下さった神様の御手を感じることができるのではないでしょうか。 25節から39節では、神様は意味もなく自分を苦しめられることはない、といった信頼が、苦しみの只中、ぎりぎりの所で謳われています。このようにぎりぎりの所で、それでも神様を信頼しようと必死で神様にすがりつく、そのような姿勢が次の展開を生んで行きます。 40節から42節では、悔い改めて、神様に立ち返ろうという決心が謳われています。43節から45節は、悔い改めの前提となる自分自身がどうしようもない者だということの告白です。 46節から54節ではもう一度、自分の悲惨さに心が向いてしまっています。しかし、これが人間の現実ではないでしょうか。そのように心が揺れ動くなかで、時に自己憐憫に陥ってしまう、そういう中で、それでも神様を信頼しよう、神様に従おうとする、そこに信仰があるのではないでしょうか。決心したら、後は何の迷いもなく、という非現実的な期待に惑わされないようにしましょう。 55節からは神様との生きた交わりへと導かれた様子が謳われています。私たちもそのような神様との生きた交わりの中に生かしていただく者とならせていただきましょう。 中谷建晴 |