聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「あなたの預言者たちは、あなたのために、むなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの捕われ人を返すために、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わすことばを預言した。」(哀歌2:14)

 今日の哀歌2章でもバビロン軍に蹂躙されたエルサレムの町の悲惨な様子が描かれ、また、そのような事態がなぜもたらされたのか、ということが謳われています。
 1節の「足台」とはエルサレム神殿のことのようですが、神殿やそこで捧げられていた礼拝に象徴されるような宗教的な形式を守って来たことも神様の裁きを遠ざけるものではないというのです。
 3節の2行目の「角」は力を象徴しているようです。2節から3節では要塞に代表されるそれまで頼りにして来たものが全く役に立たなかったことが語られているようです。同じ様に、神様の裁きの時には、私たちがそれまで頼りにして来たもの、お金や家族のつながりや能力や地位といったものは何の役にも立たないというのです。
 神様との生きたつながり以外のことは、神様の裁きの時には何の役にも立たない、何の助けにもならないというのです。私たちはどうでしょうか。もう一度自分自身の在り方、信仰の在り方を顧みさせていただきましょう。
 14節以降ではエルサレムの滅亡は神様ご自身がもたらされたことであった、神の裁きとしてもたらされたことであったということが言われています。より具体的に、14節では咎があばかれないままにされていたということがそのような悲惨な結末をもたらしたということが指摘されています。罪、過ちを指摘されることは辛いことですが、指摘され、罪、過ちを認めて、悔い改める、自分がどうしようもない者であることを認めて、神様の恵みにすがるということ、自分自身を神様の前に投げ出すということがなければ、罪、罪と言われて気分が悪いというどころではない、大変な目がやがて待っているのです。御言葉を通して、自分の罪、過ちを悟らせていただけることは大きな恵みであることを覚え、自分の罪、過ちを認め、悔い改めて、赦しに、永遠の滅びからの救いに与らせていただこうではありませんか。

中谷建晴
 



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