聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「主よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています。私が逆らい続けたからです。」(哀歌1:20) 今日から哀歌です。哀歌はバビロン軍によって散々に踏みにじられたエルサレムを目の前にして謳われた悲しみの唄で、伝統的にエレミヤの作であるとされています。全部で5章ですが、各章はそれぞれ独立した作品となっています。また、1章から4章までは、ヘブル語のアルファベット22文字が順番に各節の先頭になるなどという、いわゆる、いろは歌の形式を取っています。さらに言えば、哀歌は、ユダヤ人の間では、エルサレムが陥落した第9の月の第7日を記念して、その時期に、現在で言えば、7月中旬、丁度、この時期に唄われて来たものだそうです。 今日の1章ではエルサレムが一人のひどい目に会わされた女性に譬えられています。特に10節では、神殿にバビロン軍が侵入したことが、女性が純潔を奪われることと重ね合わせるような形で表現されています。15節もそのような表現の一つですが、13節などでは痛みの激しさ、14節では身動き取れないような重苦しさ、などが生々しく描写されていますが、これらのことは、神様の裁きがどれほど徹底したものか、ということを示唆しているわけです。私たちがキリストを信じることなく死んだ時に待っている裁きは、エルサレムの人たちがこの時に経験したことが象徴しているような大変なことなのです。キリストを信じ、救われたということがどれほど大きなことなのか、もう一度、その恵みに対する感謝を新たにさせていただきましょう。 20節では、エレミヤがエルサレムの滅亡を自分のこととして嘆いていること、エルサレムの罪を自分の罪として告白していることがはっきりわかります。神様も私たちの滅びを自分のことのように心痛めて下さり、そのために救いを差し出して下さったのです。そして、その私たちの救いのために遣わされたイエス様は、私たちの罪を自分の罪として引き受け、私たちの身代わりとなって、その罪の報いとして、苦しみを、裁きを負って下さったのです。そのイエス様の十字架の苦しみのゆえに救われたことを覚え、感謝しましょう。 中谷建晴 |