聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。」 (エレミヤ37:18) 今日のエレミヤ書37章では、エレミヤが裏切り者だというあらぬ疑いをかけられて、牢屋に入れられるようになったことが記録されています。 この時、王様であったゼデキヤは1節で述べられている通り、紀元前597年、エルサレムが一旦バビロンに包囲され、降伏した時、バビロンによって王にしてもらった人物です。にもかかわらず、ゼデキヤは反抗心に捕らわれ、エジプトを頼みとして、バビロンに反逆を企てました。そのため、バビロンの王ネブカデネザルは再び大軍を率いて、エルサレムを攻撃し、結局紀元前587年、エルサレムは攻め落とされ、徹底的に破壊されてしまうことになります。 5節や11節で書かれているバビロンの軍隊の退却は、そういう中での一時的なものでしかありませんでした。17節にあるように、ゼデキヤはこのつかの間の解放に大きな期待をしたようですが、私たちもつかの間の解放でしかないものに、永遠的な救いを期待してしまっているようなことはないでしょうか。 この解放が一時的なものであることを知っていたエレミヤはこれを機会に、財産などの整理に故郷に帰ろうとしたわけですが、あらぬ疑いをかけられて逮捕され、打ち叩かれ、牢屋に入れられてしまいます。その背景には、エレミヤの預言によって、エルサレムの人々の戦う意欲が損なわれたり、バビロンに降伏する人達がいたということがあったのではないか、と思われます。それは確かに支配者たちにとっては不都合なことであったことでしょうが、エレミヤはただ神様から託された言葉を語っただけであったわけです。にもかかわらず、このような辱めを受けたことは耐え難いことであったでしょう。しかし、イエス様はエレミヤよりもずっとひどい辱めを進んで受けて下さり、そのおかげで私たちは救いに与かることができたのです。感謝しましょう。 中谷建晴 |