聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように」 (エレミヤ21:2) 今日のエレミヤ書21章では、バビロンによってエルサレムが攻め滅ぼされる寸前というような状況になって、やっと王様がエレミヤを預言者として認め、頼ってくるようになったこと。それに応えてエレミヤが語った破滅が避けがたいことの預言。さらに11節以降では、それ以前に神様から語られていた警告の言葉。こういったことが記されています 1節に出てくるパシュフルという人物は20章でエレミヤを逮捕した祭司パシュフルとは別の人物で王様の側近の一人であったようです。 2節では王様がパシュフルたちに託した言葉が記されています。100年以上前の紀元前701年、ヒゼキヤ王の時代に、エルサレムがアッシリヤの大軍に包囲され、絶望的な状況にありながら、預言者イザヤを通して勝利が預言され、その通りに奇跡的な勝利がもたらされ、エルサレムが守り抜かれた、という出来事がありましたが、ゼデキヤ王の頭には、それと同じことがもう一度起こるのでは、という期待があったようです。しかし、ゼデキヤ王の言葉を見ますと、悔い改めて、神様の前にへりくだって助けを求めるというような姿勢が全くなかったことがわかります。彼は、前にこういうことが起こったから自分にも同じことが起こってもいいではないか、他の人の時にしたことは自分にもしてくれてもいいではないか、というような態度でしかなかったわけです。 そのゼデキヤ王に対して、エレミヤは滅び、しかも神様ご自身が敵となってゼデキヤ王とエルサレムを滅ぼされることを預言します。 他の人がどんなにいい思いをしたか、ということが問題ではなく、私たち一人一人が神様の前にどういう姿勢を取るか、ということこそが問題なのです。ゼデキヤ王のようにではなく、かつてのヒゼキヤ王のように、神様の前に一人の人間として、悔い改め、へりくだり、神様に助けを求め、その御業を拝する者とならせていただこうではありませんか。 中谷建晴 |