聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「『私はなんということをしたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は 一人もいない。」(エレミヤ8:6)

今日のエレミヤ書8章でも、ユダに神様の裁きとして、徹底的な破滅がもたらされることが預言されています。
1節から2節で述べられている死者の墓を暴くという行いは、これ以上は考えられない辱めであったようです。
4節から7節では、ユダの人々があくまで心を頑なにし、悔い改めて神様のもとに戻って来ようとしないことが指摘されています。悔い改めない頑なな心こそが神様の裁きを招き、自分自身に滅びをもたらすものなのです。自分の罪を認め、悔い改めて、神様の元に立ち返らせていただきましょう。
8節から9節では、ユダの人々は自分たちには神様から与えられた律法があるから大丈夫だと思っているが、それが間違いであるということが語られています。というのは、律法を正しく説き明かすはずの書記と呼ばれる人々が、人々の現実に妥協するような解説をしていたため、人々が罪を悔い改めようとしないということがあったようです。しかし、私たちにも御言葉をその通りに受け取るのではなく、自分たちの現実に合わせて都合のいいように御言葉を解釈しているようなことはないでしょうか。また、そのような悔い改めを求めない解説を喜んでいるようなことはないでしょうか。
14節から15節は、地方に住んでいる者たちが侵略者から逃れて、要塞となっている町に逃げ込んでも無駄であることが語られています。
また16節から17節では、全イスラエルの北の端であるダンからいよいよバビロンの軍隊が攻め寄せて来ることを、そして、その敵はまじないを唱えることにたとえられるような巧みな言葉で引き下がってくれるような相手ではないことが言われています。
18節以降はユダの裁きを預言しながらも、そのことにエレミヤが如何に心を痛めているかが語られています。そして、それは神様が裁きを下しながらも如何に心を痛めておられるかを示唆するものです。神様は裏切り続けるイスラエルの民をなおも愛しておられるからです。
正にこのユダの人々であったような私たちをも神様は愛し抜いて下さり、その愛のゆえにご自分の一人子であるイエス様を犠牲にしてまで、私たちに救いを与えて下さったのです。感謝しましょう。

中谷建晴







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