聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会 聖書一日一章 「見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。」 (エレミヤ6:10) 今日のエレミヤ書6章でも、ユダの人々の罪が指摘され、その罪ゆえにユダとその都エルサレムに下される裁きが預言されています。 1節でイスラエル民族の中でベニヤミン部族の名前が特に挙げられているのは、エルサレムにこの部族の者が多数住んでいたこと、エレミヤ自身がこの部族の治める地域の出身であったことなどから、エルサレムに住む人々を代表しているだけのことであるようです。 また1節のテコアもベテ・ハケレムもエルサレムの南に位置する町の名前で、ユダの人々が頼りにし、逃げ込んで来たエルサレムも北から来る敵の手によって攻め滅ぼされ、更に南に向かって逃げる必要が生じることを象徴的に語っているようです。 2節で元々のエルサレムの祝福された姿を描いたのと同じたとえを用いて、3節ではバビロンの軍隊の様子が描かれています。4節では、古代中東世界では普通は兵隊を休ませる真昼になお攻撃を加えようとするバビロンの軍隊の姿が描かれ、その獰猛さが強調して語られています。 10節から11節は、神様と一つ思いになって、ユダの人々の頑なさを嘆くエレミヤの言葉です。 13節から14節では、何の根拠もなく、安易に平安を語る預言者や祭司の姿が指摘されています。私たちが耳を傾けるべきは、主の言葉であって、自分にとって心地よい言葉だけを聞こうとすることは、ユダの人々と同じ様に、私たちを滅びに至らせる態度です。もう一度私たち自身の御言葉に対する姿勢を顧みさせていただきましょ 16節から17節では、神様がユダの人々にもう既に充分に、彼らがたどるべき正しい道を示して来たことが語られています。それでもなお彼らは心を頑なにし、神様の裁きを受けることになってしまうわけです。私たちは心を頑なにすることなく、神様のお招きに応え、イエス・キリストを心に受け入れ、裁きを免れ、祝福に与かる者とならせていただこうではありませんか。 中谷建晴 |