聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」 (イザヤ66:13)

今日でイザヤ書も終わりです。今日のイザヤ書66章でも、主が再び来られる時に神の民が受ける祝福と、そうでない者たちが受ける裁きがコントラストを成す形で預言されています。
3節では形の上ではきちんとささげ物をしているけれども、現実の生活の中では神様の御心に反することをしている者たちのことが指摘されています。そういう者たちに向かって1節から2節では、そのように礼拝を形式的に守っていることで神様をごまかすことなどできないことが語られています。2節の後半にあるように、神様が問題にされるのは、その人自身、その人の生活、基本的な姿勢なのです。私たちはどうでしょうか。
5節では、神様を理由に、神の民を虐げるような者たちが存在すること、しかし、そういう者たちはやがてその正体が明らかにされ、恥を見ることになることが言われています。信仰的な言葉使いで、それらしいこと、けれども実の所は全く神様の御心に反するようなことを言う者たちがいるというのです。そういう者に惑わされないように、まず私たち自身が毎日御言葉に聞き、主との生きた交わりの中に生きる者とならせていただきましょう。
6節から9節では、その終わりの日が突然やって来ることが、そして10節から14節では、その時の祝福があふれるばかりのものであることが歌われています。
23節では、その新しい世界でも礼拝が持たれることが言われています。私たちがこの地上で今、毎週捧げている礼拝は、そのまま新しい世界へと続いて行くものなのです。だから礼拝の中には、天的な、またこの世のものではない喜びがあるのです。毎週礼拝に集い、そのような喜びを毎週毎週新たにし、信仰の生涯を全うし、やがての時のその、それまでの全ての悲しみ、痛み、苦しみを補って余りある祝福に共に与かる者とならせていただこうではありませんか。

 中谷建晴



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