聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」 (イザヤ64:8) 今日のイザヤ書64章では、イザヤが神様が来られる日を待ち望んでいる中で、導かれた思いが記されています。 10節から12節で述べられているように、神の都であるはずのエルサレムはやがて徹底的な破壊を受けます。それが現実のものとなるのは、イザヤの死後、100年以上たってのことですが、イザヤは幻を通してその荒れ果てたエルサレムの姿を目の当たりにしていたようです。 1節から5節の前半まででは、そのエルサレムの荒れ果てた様子を思い浮かべる中で、イザヤが神様が来られる裁きの日を待ち望んでいることが語られています。彼はエルサレムを荒らし、辱める敵を神様がやっつけて下さることを期待していたわけですが、5節の後半からは、実は自分達も神様に裁かれるべきものであることに気が付いて行くわけです。私たちはキリストの十字架のゆえに裁きから免れることが約束されている者ですが、しかし、本来は他の人達が裁かれることを求めたり、云々したりすることができるような者ではないのです。イエス様は「人を裁いてはいけない」とおっしゃいましたが、それは元々私たちがそのような資格のない者だからです。赦された罪人に過ぎないことを覚え、へりくだり、そんな自分が赦されていることをただ感謝しましょう。 7節では、罪は私たちを神様から遠ざけ、それだけまた私たちを罪に追いやるものであることが言われています。私たちもそういう悪循環の中にもがいていたものです。ですが、8節にあるように、主の主権を認め、主の前にへりくだる時に主は私たちを赦し、そのような罪の悪循環から解放して下さるのです。主の前にへりくだり、恵みと感謝の良い循環の中をイエス様と共に歩む者とならせていただきましょう。 中谷建晴 |