聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。」(イザヤ63:9) 今日のイザヤ書63章では、神様の御業を何度も経験しながら、なおも背き続けるイスラエルの民の姿と、神様が彼らに下される裁きについて語られています。 1節のエドムは南ユダ王国の南東に位置する国で、ボツラはその都です。1節の前半では、そのエドムを滅ぼされた主が、今度はイスラエルの民を裁かれることが象徴的な表現で預言されています。 4節では主がエドムに下された裁きが復讐であるということが言われています。紀元前586年にエルサレムが攻め落とされた後、残されたイスラエルの民はすっかり無力になってしまいましたが、エドムの人々はそのイスラエルの民の無力さに付け込むようなことをしたようです。神様はそういう振る舞いに報復される、というわけです。 しかし、6節の「国々の民」という表現からエドムはイスラエルを苦しめた国々を代表する例として挙げられていることがわかりますが、1節ではその当のイスラエルを裁きに主が来られたことが示唆されています。 このことは、人から受けた仕打ちは忘れず、他の人の罪を指摘している、私たち自身が実は神様から裁かれるはずの者であることを教えてくれているのではないかと思われます。私たちは人の罪を問題にするよりも、まず私たち自身の罪を赦していただき、私たち自身が罪から清められることを求めて行く必要があるのではないでしょうか。 8節以降は神様がご自分の民を守り、育んで来られたのに、民が神様に反抗し続けたこと、それゆえ神様が懲らしめのために神の民を裁かれることが語られています。特に9節から10節にかけての箇所からは、神の民が神様に反逆することが全く理由のないことであることが強調されています。愛し、守り、恵みを注いで下さった神様、自分たちの苦しみを我が苦しみとしてきて下さった神様、に反逆するのは、全く理にかなわない、不当なことであり、裁きを受けるに当然な振る舞いです。 私たちは、そういう不当な振る舞いを捨てて、神様の元に帰り、神様の民として生きる者とならせていただこうではありませんか。 中谷建晴 |