聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」 (イザヤ62:5) 今日のイザヤ書62章は、エルサレムの救いについての預言です。 4節の前半ではエルサレムの人々が相次ぐ苦しみや困難の中で、自分達は神様に見捨てられたと思っていたことが示唆されています。そのエルサレムの人々に対して、やがて「もう『見捨てられている』」とは思わない、全くそうは思えない時が来るということがここでは預言されているのです。神様はエルサレムを見捨てられたのではなく、時が来れば救いの手を差し伸ばそうとずっと見守っていて下さるというわけです。 私たちもエルサレムの人々がそうであったように、苦しみが続く時に、自分は神様に見捨てられたと思ってしまいがちですが、決してそうではないのです。やがて、時が来れば、神様が必ず救って下さること、そしてイエス様が私たちの今現在の痛みを共に担って下さっていることを覚え、新約聖書ヤコブの手紙1章12節で言われているように、試練に耐え抜き、いのちの冠をさずかる者とならせていただきましょう。 4節の後半から5節にかけてでは、神様と私たちの関係が人格的な喜びの関係であることが語られています、神様は、花婿が花嫁を喜ぶ、そういうわくわくするような思いで私たちのことを喜んで下さっているのです。 5節の「若い男が若い女をめとる」とか、8節から9節で語られていることは、ある意味では当たり前のことです。しかし、ここでは、私たちが当たり前だと思っていることも全て神様の恵みがなければ、その通りにはならないことだということが示唆されています。私たちが与えられている全てのよいものは神様が私たちに恵みとして与えて下さっているものなのです。私たちにとって当たり前だと言えるものは一つもないのです。すべてのよいもののゆえに、またすべてのよきことのゆえに神様に感謝しましょう。 10節以降ではエルサレムに世界中から多くの巡礼者が来るということが示唆されています。荒れ果てていたエルサレムがそのような所となるように、今どんなに悲惨な所を通っているとしても、私たちもやがて自分に与えられている溢れるばかりの祝福を分け与える者として用いていただけるのです。自分で自分を見限るようなことはしないように心しましょう。 中谷建晴 |