聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは」
(エゼキエル44:15)

今日のエゼキエル書44章では、千年王国時代の神殿で奉仕する人達に関する決まりが主に語られています。
1節から3節では、神様が、東向きの外の門は閉じたままにしておくことを命じられています。それは43章の4節で言われていたように、神様の栄光がその門を通って帰って来たからでした。また、5節から9節では、割礼を受けていない外国人が神殿での奉仕に当たってはいけない、ということが語られています。古代中東世界では、捕虜として捕まえた外国人に神殿の雑務をさせるということが広く行われていたようですし、それまでエルサレム神殿でもそのようなことが行われていたようです。しかし、神様はそれを禁じられるというのです。
神様の命じられる通りに東の門を閉じたままにしておくことは神殿の出入りに不便をもたらすことであったかもしれませんし、外国人に神殿の雑務をさせることをやめることは、多くの不便をもたらすことであったかもしれません。しかし、そういう人間の都合よりも神様に対する恐れを優先させることがここでは命じられているわけです。そして、このことはそこに私たちが神様の臨在の中、力強く歩むカギがあることを示唆してくれているのではないでしょうか。
10節から14節では、外国人に代わってレビ人が神殿での奉仕に当たるように言われています。しかし、レビ人たちは、イスラエルの人々の多くがそうであったように、神様に背を向けたがゆえに、祭司としての奉仕は禁じられてしまいます。
15節以降では、祭司として奉仕することが許されるのは、イスラエルの人々が神様を離れた時にもなお忠実であり続けたツァドクの子孫だけである、ということが語られています。
私たちはともすれば、やがて来る神の国での生活は、この世での生き方とは全く関係ないと考えてしまいがちですが、この世で神様に忠実であったかどうかは何らかの形で私たちの来るべき世界での生活に反映されるのです。そのことも覚えて、この世にあって、一つ一つ主に従うことを、主の喜ばれることを選んで行く者とならせていただきましょう。

中谷建晴



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