聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「そこに主がおられた。」 (エゼキエル35:10)

今日のエゼキエル書35章では、エドムの上に神様の裁きが下ることが預言されています。
昨日の34章では、自分の利益だけを求め、正義に反するようなことをする支配者に代わって、ダビデの子孫として生まれる、救い主、メシヤが、イスラエルの民を支配するようになることが約束されていました。この約束の言葉は、捕囚の民を大いに慰め、励ますものであったと考えられます。しかし、もう一方で、完全に納得しきれないものもあったのではないか、と考えられます。というのも、そういう約束の言葉とは程遠い現実がユダヤ人たちの目の前にはあったからです。すなわち、ユダヤ人たちにとって約束の地であるはずのパレスチナの地から、自分たちは連れ去られてしまい、残されたユダヤ人たちも周辺の国々から侮られ、略奪をされるがままというのが目の前の現実であったわけです。
そういう神様の約束とは程遠い現実を目の前にしているユダヤ人たちに、神様が語って下さったのが今日のエゼキエル書35章から明日の36章の15節までであるわけです。
ここでセイルの山とは、そこに住んでいたエドム人を意味していると考えられます。エドム人はイスラエルの人々がパレスチナの地に入る以前からイスラエルの妨げとなり、その後もずっとイスラエルの人々を悩まし続けました。そういうことから、パレスチナの地に残されたユダヤ人たちを侮り、略奪している周りの国々を代表してエドムの名前が挙げられていると考えられます。そして、そのエドムが神様によって罰せられ、その地が荒れ果てるようになることがここでは預言されているわけです。 現状は悲惨なものであっても、やがて神様ご自身がその現状を打破して下さることが改めて、約束されているわけです。
私たちも悲惨な現状に心奪われ、絶望してしまうことなく、神様がその現状を打破して下さり、やがて祝福をもたらして下さることを信じ抜いて、その約束された祝福に与かる者とならせていただきましょう。

中谷建晴



Copyright© Sakai Ohama Christ Church All rights reserved.