聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「わたしは決して悪者の死を喜ばない。」 (エゼキエル33:11)

今日のエゼキエル書33章は、1節から20節までが、エゼキエルが捕囚のユダヤ人たちに与えた最後の警告、21節以降がエゼキエル書の最後まで続く、将来与えられる祝福についての預言のオープニング、となっています。
2節から9節では、エゼキエルにユダヤ人たちに対する見張り人としての役割と責任が与えられていることが語られています。そして、その責任を果たすべく神様からエゼキエルに託されたお言葉が、10節から20節です。
10節では自分たちの罪を自覚したユダヤ人たちが、自分たちはもう駄目だと言っているのに対して、神様は、御自分が決して悪者が滅びることを喜んでおられるわけではないこと、むしろ、悪者が悔い改めて生きることを望んでおられることをはっきり語っておられます。そして、12節から16節では、悔い改めるならば、罪は赦されることが宣言されています。
私たちは自分の罪を知った時に、もう駄目だと絶望したり、自分は育ちがこうなのだから、環境がこうなのだからこんな罪を犯すのも仕方がない、こんな自分を罪を犯したからといって裁くのは不公平だと神様に対して不平を言ったりしがちではないでしょうか。それは、そうする方が悔い改めるよりある意味で楽だからです。私たちの肉の性質はあくまで悔い改めるのを拒もうとします。そうではなく、聖霊様に導いていただき、悔い改め、御霊に生かされる者、そうして、永遠の命に生きる者とならせていただきましょう。
24節の二重括弧の中の言葉は、捕囚を免れ、パレスチナに残ることのできたユダヤ人たちが、自分たちこそがアブラハムの約束を継いで、約束の地を所有する者なのだと、おごりたかぶって語った言葉のようです。神様はその彼らに対してあなたがたこそ滅びる者たちだと語っておられます。このユダヤ人たちのように、目の前の結果だけを見て、自分こそが祝福された者だなどと思って思い上がってしまうことなく、本来は祝福に与かることなど望むべくもない者であることをいつも覚え、主の前にへりくだり、へりくだる者にこそ約束されている主からの祝福に与かる者とならせていただきましょう。

中谷建晴



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