聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」 (エゼキエル22:30) 今日のエゼキエル書22章では、南ユダ王国とその都エルサレムでどのような罪が犯されているかが挙げられ、神様に裁かれるのが当然である、ということが証拠付けられています。 3節から4節、6節から12節などから、具体的に人が犯す罪と偶像礼拝とが密接につながっていることがわかります。偶像礼拝とは、実際に偶像を拝むこと、偶像礼拝に参加することだけではなく、神様以外の何物か、生活の安定や家族、自分の感情などを、神様よりも大事にしてしまうことであり、それは、罪と滅びへの道なのです。はっきりと偶像礼拝を捨てて、神様だけを神とし、その神様からの祝福に与かる者とならせていただきましょう。 13節で述べられている手を打ち鳴らすという動作は、神様がもう我慢できずに行動を起こされることを物語っているようです。 17節から22節では、神様の裁きの目的が清め、回復することにあるということが示唆されています。私たちも、イザヤ書48章10節で述べられているように、悩みという炉の中を通されることがあるかもしれませんが、それは私たちを練り清め、真実に神様を愛し、神様に従い、神様に仕える者として私たちを回復するためなのです。 30節では、南ユダ王国とその都エルサレムを神様にとりなし、その上に下ろうとしている裁きを免れさせることのできる者が誰もいない、ということが言われています。神様が求めておられるのは、罪を指摘して、だから駄目だと背を向けたり、見捨てたりする者ではなく、罪とその結果を、自らを犠牲にして繕おうとする者なのです。イエス様が私たちにとって、そのような者になって下さったことを覚え、私たち自身そのような者にならせていただきましょう。 中谷建晴 |