聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。」(エゼキエル20:32)

今日のエゼキエル書20章から23章までは、これまでの8章から19章までとは別のひとかたまりです。20章から23章の預言は、20章の1節によりますと、エホヤキンが捕囚に連れ去られてから7年目、紀元前591年の夏であったことがわかります。この時期には、エジプトがアフリカ内部での戦いに勝利を収め、ユダヤ人たちの間では、エジプトがその勢いに乗って、バビロンを破り、バビロンの支配から自分たちを解放してくれるのではないかという期待が高まっていたようです。1節には長老たちがエゼキエルのもとに来ていたことが述べられていますが、おそらくはそういう自分たちの期待に応えるような神様からの言葉を求めて来ていたのではないか、と思われます。
3節を見ますと、神様は、彼らのそんな期待には応えないと語られたことがわかります。それは、ユダヤ人たちがなぜ神様が南ユダ王国を滅ぼそうとされているのかが、わかっていないからでした。神様はイスラエル民族の不信と罪を裁こうとされていたわけですが、彼らは自分たちが裁きに値するものだということがわかっていなかったようです。4節以降では、それまでのイスラエル民族の歴史が神様に逆らい続けた歴史であることが明らかにされています。その歴史を振り返る時に、イスラエル民族がどんなにひどい罪を犯し続けて来たか、また、その罪を神様が如何に深い忍耐をもって耐え忍んで下さって来たかがわかります。
私たちも自分自身の歩みを省みる時に、如何に自分が罪にまみれた歩みをして来たか、そして、その私たちを神様が如何に忍耐と寛容をもってまた、時に32節から33節で示唆されているような愛ゆえの厳しさをもって導いて下さったかを覚えさせていただけるのではないでしょうか。そうして、自分が主の赦しと恵みの中に生かされていることに対する感謝を新たにさせていただこうではありませんか。

中谷建晴



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