聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」 (エゼキエル19:14) 今日のエゼキエル書19章では、南ユダ王国末期の3人の王様の歩みが、比喩を用いて語られています。 2節の「母である雌獅子」とは国としてのユダのことを、「雄獅子」あるいは「若い獅子」とは周辺の国々やその王たちのことを指していると考えられます。そして、2節の最後で出て来る「母である雌獅子」に養い育てられた「子獅子」とは、南ユダ王国の王様のことを指します。4節ではその「子獅子」は成長した後、エジプトに連れ去られたと言われていますので、紀元前609年、エジプトに連れ去られたエホアハズ王を指しているということがわかります。 5節に出て来るもう一頭の子獅子は、9節を見ますと、成長した後、バビロンに連れ去られたと言われていますので、紀元前597年、バビロンに捕囚として連れ去られたエホヤキン王を指すと考えられます。 獅子もしくはライオンは、王の一族、特にダビデの一族について語られる時によく用いられるイメージですが、10節以降では、本来は王様になることのできないはずだったけれども、この預言がなされた当時、南ユダ王国の王であったゼデキヤ王のことを語るためにぶどうの木のイメージが用いられています。12節では、このゼデキヤ王も退けられること、14節では、ゼデキヤ王のために南ユダ王国そのものが滅んでしまうことが預言されています。 神様はここで王様といえども、全く頼りにならないことを改めて歴史をひもときながら、語っているわけです。しかし、神様はいたずらに絶望を語っているわけではありません。そういう人間的な望みが消えうせた後にも、なお神様には期待することができるということをこそ神様はここで教えようとしておられるのです。私たちも人に期待し、裏切られたとか、失望したとか、言うのはやめて、神様に期待し、神様によりすがり、神様が与えて下さる救いと祝福に生かされる者とならせていただきましょう。 中谷建晴 |