聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。−神である主の御告げ。−だから、悔い改めて、生きよ。」 (エゼキエル18:32) 今日のエゼキエル書18章では、人、一人一人が神様の前にその生き方において責任ある存在である、ということが語られています。 2節の『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』というのは、当時のことわざで、親の過ちの責任を子どもが取らされることの不合理さを語ったもののようです。イスラエルの人々は、このことわざの語るように、自分たちが今、神様の裁きを受けるのは、先祖たちの罪のためであり、先祖の罪のために自分たちを裁く神様は不公平だ、自分たちはただ運が悪かっただけだ、という風に考えていたようです。そういうイスラエルの人々に対して語られたのが、今日のこのエゼキエル書18章のお言葉であるわけです。 5節から20節で、正しい者は、親や子どもがどうであろうと生き、罪ある生き方をする者は、親や子どもがどんなに正しい生き方をしていたとしても滅びる、ということが語られています。 私たちもともすれば、自分は、親があんな人たちだから、所詮、この程度の生き方しかできない、などと考えてしまいがちではないでしょうか。しかし、親や子がどうであれ、置かれた環境がどうであれ、私たちは今ここでキリストを信じて、神様に従う人生を選び取ることはできるのです。また、裁きの日には、他の誰かを理由に言い逃れをすることは許されないのです。ただ神様を恐れて、悔い改めて、主に従う人生を選び取り、永遠の命の祝福に与かる者にならせていただきましょう。 21節以降では、神様が誰が滅びることをも望んでおられないことが語られています。神様は深い痛みを覚えながら、裁きを下されるお方なのです。神様は、私たち一人一人をかけがえのないものとして愛して下さっているのです。自分自身を軽々しく扱うことは、神様の御心を痛めることなのです。 中谷建晴 |