聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれよう。」 (エゼキエル14:3) 今日のエゼキエル書14章では、神様がエゼキエルを通して、イスラエルの長老たちの心の中の偶像礼拝を指摘され、責められたことと、エルサレムの破滅が避けられないものであることを語られたこととが記録されています。 1節の「イスラエルの長老たち」とは、バビロンに既に捕囚として連れて来られていたユダヤ人の中で指導的な立場にあった者たちのことです。彼らは13章での、偽預言者についての裁きの預言を聞き、自分たちがこの後どうしていけばいいのか、神様の導きを求めて、本物の預言者であるエゼキエルのもとにやって来たわけです。その行動は、いかにも信仰深いもののように見えますが、実の所、そうではない、ということを神様は厳しく指摘されます。3節で、神様はエゼキエルを通して、「あなたたちは見える所は敬虔であっても、心の中では偶像礼拝を続けているではないか。そんなあなたがたに、わたしは答えることはできない。」と、彼らに厳しく迫るわけです。 私たちも、偶像に手を合わせてはいなくても、神様の導きを求めると言いながら、実の所は自分を主とし、自分がどうすればいい思いをすることができるか、ということを尋ね求めているというようなことはないでしょうか。 22節の3行目の「彼らの行いとわざ」というのは、ヘブル語からすると悪い意味の「行いとわざ」のことのようです。としますと、22節の最後で言われている「慰め」とは、23節にあるように、神様が正しい方であるということを確認できることを指していると考えられます。神様ご自身が素晴らしい方であるということそのものが、神様の民である私たちの喜びであり、慰めであるのです。私たちはそういう正しい方向を向いて信仰の歩みをしているでしょうか。もう一度、自らの歩みを顧みてみましょう。 中谷建晴 |