聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。」 (エゼキエル10:18) 今日のエゼキエル書10章も、8章・9章からの続きでエゼキエルがバビロンにいながら、神様の不思議な力によって見させていただいたエルサレムについての幻です。 15節で言われているように、ここでエゼキエルは、1章で描かれていた、自分が預言者として神様から召し出された時に見たのと同じ、不思議な生き物に再び出会いました。そして、今回はその生き物がイスラエルの神、主の臨在を象徴する、ケルビムだということに気づいたようです。 18節では、主の栄光がエルサレムの神殿からケルビムの上に出て行ってしまっています。8章でエルサレムの神殿の真っ只中で偶像礼拝が行われていたことをエゼキエルは幻の中で目撃していますが、そういう汚れた場所に、聖なる、聖い神様はご自分の栄光をとどめておくことができず、取り去られてしまったわけです。最早、エルサレム神殿は、神様の臨在を経験することのできる聖なる場所ではなくなってしまったわけです。教会も、神様に対する恐れを忘れ、神様を礼拝することが二の次になり、罪の思い、肉の思いがそのままはびこるならば、そのようになってしまうのです。心しましょう。 2節や6節や7節でケルビムから取られた炭火がエルサレムの町に撒き散らされることは、神様がエルサレムの町を清められることを象徴しているようです。神殿から神様の栄光が取り去られ、町が破壊され、人々が殺されたのは全てを清め、神様の栄光が宿るに相応しい町としてエルサレムを回復するためであるわけです。私たちも、今、試練の中を通っているかもしれませんが、それは私たちを清め、私たちの人生が主のご栄光を表すものとなるための備えなのです。信仰と忍耐をもって試練に耐え、主の栄光を表し、回りの人々にとって祝福の源となる生涯を歩む者とならせていただきましょう。 中谷建晴 |