聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、ささいなことだろうか。」 (エゼキエル8:17)

今日のエゼキエル書8章では、預言者エゼキエルが、神様の不思議な力によって、バビロンにいながら、遠く離れたエルサレム神殿で偶像礼拝が行われていることを目撃したことが記録されています。
1節の日付から、エゼキエルがこのことを経験したのは、彼がバビロンにある自分の家で、4章で神様から命じられた通り、ユダの咎を負って、右わきを下にして、横たわっていた最中だったということがわかります。
5節では神殿の外庭に偶像が堂々と置かれていたことが、また7節から13節では、ユダの長老たちが、神殿の内庭と外庭を隔てる壁の中に作られていた個人用の部屋でひどい偶像礼拝をしていたことが目撃されています。さらに14節から15節ではタンムズという偶像が神殿の外庭で礼拝されていたことが目撃されています。このタンムズという偶像は、秋には一度死んで、春になるとよみがえるとされ、秋にはその死をなげき悲しむのが宗教行事の一つであったようです。さらに16節では25人の人が内庭で太陽を拝んでいることが目撃されていますが、内庭に入ることが許されているのは祭司だけでしたので、この25人は祭司たちであったと考えられます。
つまりよりによってエルサレムの神殿で、祭司や長老までもが偶像礼拝をしていたというわけです。だとするならば、ユダは神様に滅ぼされても当然なのではないでしょうか。
しかし、私たちも同じように、よりによってこんな所でこんなことをするのか、というような罪を犯し、罪にまみれていた者ではなかったでしょうか。そのような、裁かれ、滅ぼされて当然の私たちがキリストの十字架によって罪赦され、裁きを免れ、神様の祝福に与かることが許されたのです。何と感謝なことではないでしょうか。

中谷建晴



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