聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 うい エゼキエル書 8章 「ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。」 (エゼキエル書 8:17) エホヤキンが捕囚とされてから6年目(1:2)、エゼキエルがイスラエルの咎を負って横たわった390日が終わったときのことでしょう(4章)、彼が家で捕囚のユダの民の長老たちちと共に座っていたとき、主が幻のうちに彼をエルサレムに連れて行き、エルサレムの霊的状況を示されました。北面の内庭は「ねたみの偶像」に向かいあっており、庭の入口の壁の穴から中に入ると70人の長老が偶像を彫り付けた壁に囲まれて偶像にささげる香炉を手にしていました。彼らは表向きは敬虔な長老でしたが、その内面は、偶像礼拝に凝り固まっていたのです。北の門の入口では、「女たちがタンムズのために泣きながらすわって」いました。タンムズとは農業の神か牧羊神、庶民の偶像で、女たちも偶像礼拝に染まっていたのです。さらに主の宮の内庭に入ると、主の宮の本堂の玄関と祭壇との間に25人ほどの人が主の本堂に背を向け東の太陽を拝んでいました。この場所に入ることができるのは祭司たちだけです。祭司たちも、主の宮の中にいながら、本心は偶像礼拝にとらえられていました。私たちも聖書のことばを使いながら主以外のものに心を向けることがないか、と問われます。ここで主は「彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。」とエゼキエルに問いかけられましたが、私たちにも「お前は宗教的外面ではなく、本心から主を恐れ主を信じ主を崇め主を愛しているか。」と問われている、と受け止めました。 唄野隆 |