聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 エゼキエル書 6章 「・・・とき、彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」 (エゼキエル書 6:10) 5章まではしるしによる預言でしたが、6章と7章はことばによる預言です。イスラエルの山々に向かって、“そこに建てられた高き所が打ち壊され、祭壇が荒らされ、香の台が砕かれ、偶像を拝んでいた者たちの刺し殺された死体がその前に投げ出される”という恐ろしいさばきが告げられますが、そのとき、彼らは“主が主であることを知る”と言われます。そのさばきの中で、“逃げ出した者は外国に散らされ、その地で主を思い返し、偶像を慕う心が砕かれ、自分の罪を忌み嫌うようになり、主を知る”と告げられました。そのとき、彼等は周りの人々に主を指し示すことになるのです。「彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」というエゼキエルの預言のことばは、どんなことをも用いて、彼らに主を知らせ、周りの人々にも主を知らせようとされる主の愛の熱心を示しています。主はどんなことを用いてもご自身を私たちに示そうとしてくださっているのです。私たちは、目先の幸いを求め、それを損なう災いを恐れますが、主は、幸いも災いもすべて主を知る機会と変えることがおできになるのです。実際、多くの聖徒が“主と出会う幸いを経験したのは苦しみの中であった”と証しています。幸いであっても、災いであっても、そこで主を見上げ、そこで主を知らせていただきくことができるのです。絶望的な苦悩の中にも望みがあるのです。感謝し、主を見上げます。 唄野隆 |