聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会 聖書一日一章 「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。」 (アモス5:18) 今日のアモス書5章でも、引き続き、イスラエルの上に神様の裁きが下ろうとしていることが預言されています。 5節のベテルもギルガルも当時の北イスラエル王国の中の偶像礼拝の中心地であった場所です。またベエル・シェバは南ユダ王国の南の端にある町ですが、そこにも何かの偶像礼拝のための祭壇があって、北イスラエルからわざわざそこまで行く人々もいたようです。しかし、そのような熱心さは何の意味もないということがここでははっきりと言われているわけです。生ける真の神様に対する、人格をかけたものでなければ、どんなにいわゆる宗教的に熱心であってもそれは意味のないものなのです。 その5節は4節の最後の「わたしを求めて生きよ」という呼びかけと、6節の冒頭の「主を求めて生きよ」という呼びかけにはさまれた形になっていますが、私たちはその神様のお声に応えて、心から主を求めて生き、主との出会いの中に生きる者とならせていただきましょう。 18節と20節では、イスラエルの人々が、やがて主の力が明らかにされる裁きの時を、周りの国々が裁かれ、滅ぼされる、自分たちの救いの時だと考えていたこと。けれども、彼らの期待に反して、周りの国々よりもまずイスラエル自身が裁かれることになること、が語られています。 私たちはともすれば、他の人の罪ばかりを問題にしがちなものですが、誰よりもまず私たち自身が裁かれるべき罪人であることを忘れてしまってはいないでしょうか。その罪人であるこの私がイエス・キリストの十字架の身代わりの死によって罪赦された、そこにこそ私たちの信仰の原点があることをいつもしっかりと心に留めさせていただきましょう。 中谷建晴 |