聖書一日一章メッセージ集![]()
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| 堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」(2テサロニケ2:10) 今日のテサロニケ人への手紙第二2章からすると、当時のテサロニケの教会の中には、イエス様は既に再び来られた、再臨された、というようなことを言っている人たちがどうやらいたようです。2節では特にそのことがはっきり指摘されていますが、3章の6節から13節などでも示唆されているように、そういうイエス様は既に再臨された、既に新しい時代が始まったというような偽りの言葉に踊らされて、日常生活の責任を放棄する人たちがテサロニケの教会の中にはいたようです。そういう人たちのことを念頭に置きながら、3節から5節で、パウロはイエス様が既に再臨されたというのは全く根拠のないデマでしかないということを論じているわけです。 その一番の理由として、イエス様の再臨の前に現れるはずの「不法の人」と呼ばれる存在がまだ姿を見せていないということをここでパウロは論じています。このことは、世界がどんどんよくなっていって、そうした所にイエス様が再臨されるというわけではない、あるいは、今のままの状態がずっと続いて、そのうちにイエス様が再臨されるというわけではないということを示しています。4節で言われているように、「不法の人」と呼ばれるイエス様に、真の神様に反対する者が力を振るう時代、暗黒の時代があって、イエス様が再臨されるのはその後だというのです。そして、そのような時代にあってもなおイエス様を主と告白する者だけが、信仰のゆえに迫害され、差別されてもなおイエス様を主と告白する者だけが救いに与かることができるというのです。そのような時に備えて、今この時、信仰を養っておく必要があることを覚えましょう。 10節から11節で述べられているように、何が本当なのか、どこに救いがあるのかということを真剣に求めて来なかった人は、「不法の人」に惑わされ裁きを受けることになると言われています。私たちはどうでしょうか、何が本当か、よりも自分にとって心地よいかどうか、自分の感情を満たしてくれるかどうか、自分にとって損か得かを基準にして行動しているようなことは、滅びへの道を歩んでいるようなことはないでしょうか。そうではなくて、たとえ不愉快でも、痛くても、損をするだけのように見えても、真理を選び取る者、そうして救いに与かる者にならせていただこうではありませんか。 中谷建晴 |