聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、 その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださっ たとしたら、どうでしょうか。」(ローマ9:22)

今日のローマ人への手紙9章から11章まででは、パウロはユダヤ人の選びの問題について語っています。
今日の9章の3節で言われているように、パウロ自身、ユダヤ人の一人であったわけですが、4節から5節で言われているように、このユダヤ人こそが、元々は神様の選びの民であったわけです。ちなみに、4節の冒頭で特に強調されているように、パウロはここで、自分たちのことをユダヤ人ではなく、イスラエル人と呼んでいます。これはユダヤ人という呼び方が、ギリシャ人ではなく、ユダヤ人というような、政治的、社会的に区別された一つの民族の名前という意味合いが大きかったからではないか、と思われます。そういう、人類を、言葉や風俗・習慣といった、人間的な何かの要素で区別した結果の一民族としてではなく、神様に特別に選ばれた民という意味を強調して、ここでは自分たちのことをユダヤ人ではなく、イスラエル人とパウロは呼んでいるようです。
今日の9章の6節から29節では、神様が元々は神の選びの民であった、そのイスラエル人をイエス・キリストにある救いに入れられなかったことがおかしなこと、不当なことではない、ということが語られています。その理由としてパウロはここでは2つのことを挙げています。ひとつは6節から13節、27節から29節で述べられていることですが、神の選びは肉体的な意味でつながりのある者全てに及ぶわけではないということです。2つ目は14節から26節で述べられているように、人間が神様のなさることを云々することはできない、神様が主である、ということです。私たちは、本来、その罪ゆえに滅ぼされ、そのことによって、神様が罪を裁かれるお方、罪人をそのままにしておかないお方であるということが明らかにされる、そういう者でしかなかったわけですが、神様が一方的に選んで、罪人にさえ憐れみを示される神様の憐れみ深さを指し示す器として下さったのです。おそれ、へりくだりつつ、感謝しましょう。
中谷建晴



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