聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ7:24)

今日のローマ人への手紙7章では、主に、人間は生まれながら罪の原理に支配されているものである、ということが語られています。言葉を代えれば、私たちには、罪と戦う力などそもそもない、ということがここで主に語られていることであるわけです。譬えるなら、ジェット戦闘機や戦車に、槍や刀で立ち向かうようなものだというのです。そういう戦いでも、断固とした意志を持ち、工夫をこらせば、何人かの敵を倒すことができることがあるかも知れないけれども、勝利を得ることなどはありえない、最後には圧倒的な敗北を喫するしかない、私たちが罪と戦おうとすることはそのようなものである、ということがここでは言われているわけです。ちなみに、最後の25節の後半は、1節から24節までの議論を最後にまとめた後書きのようなもので、論理の流れそのものは25節の前半で終わっていると見なすのが相応しいようです。
1節から6節は、昨日の6章からの続きで、キリストを信じる者は、律法を守ることによって救われるという、それまでのユダヤ教の原理から解放されているということが語られています。
続く7節から13節では、そもそも、そういうユダヤ教の原理では、人は救われないが、だとするならば、そういう原理自身に、あるいは律法の掟そのものに問題があるのか、というとそうではない、律法を守ることのできない私たちが問題である、ということが語られています。
そして、14節以降で、では私たちが律法を守ることができないその原因は私たちが罪の圧倒的な力の支配の下にあるからだ、ということが語られています。ですから、どんなに頑張ろうと、堅い決心をしようと、修養を深めようと、そして、その結果、部分的には勝利を得ることができたとしても、私たちは罪の力に抗うことはできないというのです。私たちが勝利を得ることができるとしたら、その罪の力よりもさらに強い力を持つものが現れて、罪の力を撃破してくれた場合だけだというのです。イエス・キリストの十字架は正にそのような神様の力の現れだったわけです。キリストを信じる者は、今度は、罪の力を圧倒する力を持つ、神の側に立つ者とされたのです。ですから、今度は反対に、たとえ、部分的には戦いに敗れることがあったとしても、勝利を約束された者となったというのです。感謝しましょう。

中谷建晴



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