聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対 してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
(ローマ6:11)

今日のローマ人への手紙6章では、イエス・キリストを信じる者は、キリストと一つにされているということとその意味する所が語られています。 1節や15節でパウロが想定している質問は、表面的には筋の通った正当なもののようにも見受けられるものです。すなわち、罪が赦されるという所に神様の恵みが現れるのなら、罪の中に止まることはむしろ神様の恵みが現れる場を提供することになるのだとか、どちらにしても罪は赦されるのだから罪を犯しても救いには何の関係もない、こういうことに論理的にはなるかもしれない、というわけです。しかし、そういう議論に対して、パウロは一つの事実をもって応えます。すなわち、イエス・キリストを信じた者は、イエス・キリストと一つになっているという事実です。
5節の前半でパウロは、キリストを信じる者はキリストにつぎ合わされていると言っています。すなわち、キリストを信じる者の中には、キリストの命、キリストの力が流れているというのです。12節の前半で「あなたがたの死ぬべきからだ」ということが言われていますが、そこで表現されている通り、キリストの命が流れていたとしても、体は元のままですから、キリストの命がそのまま現れるわけではありません。ですから、11節で言われているように、ある種の自覚、決心が必要になるわけです。しかし、そういう自覚、決心さえあれば、はいはいしていた赤ちゃんが歩き始める時のように、最初はたどたどしくても、どんどんキリストの命に生かされ、キリストの命が現れるようになって行くというのです。キリストにある新しい命が自分の中にあることを覚えて、それに相応しく生きようとし始めるならば、紆余曲折や時に後退することがあったとしても、長い目でみればどんどんそうなって行くことができるのです。私たちもそのようにして、キリストにある新しいいのちに生きる者、ますますそうなって行く者にならせていただきましょう。

中谷建晴



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