聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。」(ローマ5:3)

今日のローマ人への手紙5章では、信仰によって義とされるということの意味する所が説明されています。
1節から11節では、特に1節や11節ではっきり語られているように、義と認められた者にとっては、神様は恐れるべきお方ではなくなるということ、その存在が喜びである、そういう方になる、ということが述べられています。
2節で言う「神の栄光」とは、神様がその力を全て発揮されてこの地上に裁きをもたらし、正義を打ち立てる、世の終わりの時を指しているようです。罪赦され、義とされ、神様に受け入れていただけることが明らかになっている者にとっては、神様の裁きの時、世の終わりの時は、むしろ待ち遠しい時なのです。私たちはどうでしょうか。神様の裁きの時を待ち望むような生き方をしているでしょうか。この世のあの楽しみ、この楽しみにとらわれているような、あるいは、このこともあのことも赦されたと確信できていないので今すぐに神様の裁きの時が来るのは恐ろしい、というような生き方のままになってはいないでしょうか。
3節から5節では、義とされた者にとっては、患難が希望につながるものとして、喜ばしいものであるということが言われています。神様の裁きの時を待ち望む者にとっては、様々な苦しみは、自分の今いる所、この世界が自分の本来の場所ではない、最終的な場所ではない、ということを改めて教えてくれるものだというのです。
12節から21節では、どのようにして、イエス・キリストによって全ての人に、義と認められる道が開かれるのか、ということが、最初の人アダムの罪によって全ての人が罪に陥ったことを引き合いに出して説明されています。パウロはその中で、特に20節で、律法はその罪と救いの現実をよりよく人にわからせるためのもので、罪や救いに決定的な役割を果たすものではない、ということを語っています。律法が私たちの信仰の中心ではないのです。こうでなければいけないと自分の力で頑張ろうとすることや、こうでないから、自分は相応しくないと自分に失望することではなく、そんな自分が愛されていること、救われていることを喜ぶことこそが、私たちの信仰の中心なのです。自分がどこに中心を置いた歩みをしているか、もう一度、自らの信仰の歩みを顧みさせていただきましょう。

中谷建晴




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