聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)

今日のローマ人への手紙4章では、信仰によって義と認められるという教え、いわゆる、信仰義認と呼ばれる教えが、イエス様によって新たにもたらされた新しい教えではなくて、旧約聖書の中ですでにはっきり語られて来たものであるということが論証されています。これは、旧約聖書を尊んできたユダヤ人たちにとっては大変意味のある議論だったのではないか、と思われます。
1節から5節では、ユダヤ人の最初の先祖であるアブラハムが、また、6節から7節では、ユダヤ人にとっては最大の歴史的英雄であるダビデがそのような信仰に立っていたことが論証されています。
9節から12節では、アブラハムが割礼を受けたのは、3節で引用されている「信仰によって義とみなされた」と言われた時よりも後のことであるということが、13節から17節では、そのアブラハムは律法が与えられる出エジプトの際よりもずっと前の人間であったことが指摘され、その意味する所が説明されています。つまり、割礼も律法も、信仰によって義とされたことの印として、与えられたものであり、割礼を受けることや律法を守ること自身が人を義とするわけでもないし、逆にそういうことをしなければ義とされないわけでもない、ということが言われています。
18節から23節では、アブラハムがその信仰ゆえに義とされたことの確かな証拠として、あの奇跡的な年老いたサラの妊娠・出産があったこと、それと同じ様に、私たちが信仰によって義とされることの確かな証拠として、すなわちイエス様の死が単なる一人の人間の死ではなかったことの証拠として復活があることが言われています。
信仰こそが、神様の恵みと憐れみを信じてより頼むことこそが大事なことなのです。私たちはどうでしょうか。クリスチャンらしくするなどといったことに心を奪われて、信じるということを、信じて、神様の前に罪赦され、義と認められる、あるいは、そうされたということを忘れてはいないでしょうか。もう一度、自らの在り方を顧みさせていただきましょう。

中谷建晴





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