聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」(ローマ3:27)

今日のローマ人への手紙3章は、昨日の2章17節から続いて、一人のユダヤ人を想定してその人の反論に応えるという形を取りながら、パウロがイエス・キリストにある救いの意義を説明している箇所です。その背景には、ローマの教会の中には、ユダヤ人クリスチャンが多くいたということがあったようです。
3節で言われている「彼らのうちにいる不真実な者」とは、2章21節から
25節で指摘されているような、割礼を受けて、形の上ではユダヤ人であるけれども、律法を守ろうとしない者たちのことのようです。また、3節の最後の「神の真実が無に帰する」とは、神の選んだユダヤ人の中にも不真実で、救いに与かることができない者がいるとするなら、神の選びの意味がなくなってしまう、ということを言っているようです。
勿論、パウロは4節などでそういう見方を否定してます。救いは、選ばれた民に生まれて来たから自動的に救われるというようなものではないし、ユダヤ人は神の言葉を託されたという意味で選ばれた民であるのです。
7節と8節では、そういうユダヤ人であれば自動的に救われているという考えが間違っていることは、ユダヤ人の中にも不真実なものがいるということで初めて明らかになることなのだから、ユダヤ人の中にいる不真実な者は神の真理を明らかにしたという意味で、神の栄光を表した、だから、裁かれるべきではない、というおかしな論理で反論する人を想定しての言葉です。結果としてよいものが出て来れば、何でもよいというわけではないことはパウロの言葉を待つまでもなく明らかなことではないでしょうか。
そういう詭弁的な議論を封じた上でパウロは、9節以下で、ユダヤ人に託された神の言葉こそが絶対の基準であり、その神の言葉に照らし合わせるならば、ユダヤ人も、それ以外の者も自分を正しいと言うことなどできない。救われるとしたら、それは恵みとして受け取るという形でしかありえないということを論じているわけです。
私たちも、神様の前には、これだけのことができていると誇ることなど何もできない者であり、ただ恵みのゆえに救われた者です。へりくだって、ただ神様の恵みの中に生かしていただきましょう。

 中谷建晴





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