聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。」(ピレモン19)

 今日はピレモンへの手紙です。ピレモンへの手紙はパウロの手紙の中では最も短いものですが、当時の手紙の殆どはこの手紙よりずっと短いものでした。また、19節で言われているように、他の手紙とは違って、口述筆記ではなくて、パウロ自身が筆を取って書いたものであるようです。さらには、内容的にも随分考え抜かれた構成になっていると聖書学者たちは指摘しています。
 2節の後半から、この手紙の宛先人であるピレモンはコロサイの教会の中心的なメンバーで、コロサイの教会そのもの、もしくは、その一部がピレモンの家で礼拝を持っていたことがわかります。ということはピレモンは相当大きな家に住んでいたということのようです。そのピレモンの家の奴隷であったオネシモという人物が、お金を盗って逃亡していたが、その後、パウロの導きでクリスチャンになり、パウロの助手のような働きをしていたようです。けれども、パウロが、このままではいけないと思ってオネシモを送り返すが、許して受け入れてやって欲しいということでピレモンに向けて書いたのがこの手紙であるようです。
 この手紙は愛とか許しとか主にある交わりとかいったものは、ただ言葉の上の事柄ではなくて、実際の生活の中で生み出していかなければならないものであるということ、そして、それは決して奇麗事では済まないことを示してくれています。8節、14節、18節から21節などでパウロは皮肉とも受け取られかねない微妙な言い回しをしていますが、それは彼がそのことをよくわかっていたことの現れではないかと思われます。また同時に、愛とか許しとか主にある交わりはその人自身がそうしようと思わない限り生まれて来ないことをよくわかっていたからであったと言うこともできるでしょう。さらには、6節で言われているように、そうすることによってこそピレモンの信仰が生きたものになるということがわかっていたので、ぜひそうして欲しいという思いがあったからこそであったと言うこともできるでしょう。そして同じことは私たちにも当てはまるわけです。
 自分に具体的に害をなした人を許すこと、受け入れること、そういう相手とも主にあって交わりを持つことは決して簡単なこと、奇麗事で済むことではありません。しかし、私たちがイエス様のゆえに自分の信仰的決心としてそうする時にこそ、私たちの信仰は生きて働くもの、実を結ぶものになって来るのです。

中谷建晴



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