聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 (マタイ26:42) 今日のマタイの福音書26章では、イエス様がとうとう捕らえられて、裁判にかけられ有罪とされてしまうまでの次第が記録されています。 14節から16節では、12弟子の一人であったイスカリオテのユダの裏切りが記録されています。イエス様はご自分が十字架にかかって死なれるということをたびたび予言されましたが、それはユダのイエス様に対する期待に反するものであったようです。そして、そのことが、ユダの裏切りの直接の原因だったようです。自分の勝手な期待が裏切られたと言って、ユダはイエス様を裏切ったわけですが、このユダの姿はまた私たちの姿ではないでしょうか。私たちも自分の期待通りでないからということだけで、相手に何の落ち度がなくても、その相手に傷つけられたとつぶやき、その相手を恨んだり、憎んだりする自己中心の罪に捕らわれている者なのではないでしょうか。 17節から29節はイエス様と弟子たちの過ぎ越しの食事の様子、47節からはイエス様が逮捕された時の様子です。過ぎ越しの食事での親しい交わりの直後であったにもかかわらず、イエス様が逮捕されるのを見ると、弟子たちは、さっさとイエス様を見捨てて、逃げ去ってしまったのです。特に33節や35節のペテロの決して裏切らないという約束と、69節から75節でそのペテロがイエス様を知らないと誓っている姿は対照的です。しかし、これが弱い人間の現実なのではないでしょうか。自分の力、自分の決心では私たちは誠実を尽くすことなどできないのです。しかし、31節や34節などを見ますと、イエス様がそのペテロや弟子たちの弱さをあらかじめよくご存じでありながら、愛し、受け入れて下さっていたことがよくわかります。 イエス様は私たちが弱い、不誠実な者であることを全てご存じの上でなお私たちを愛し、私たちのために十字架にかかって下さったのです。私たちはそのイエス様にただただおすがりするだけでよいのです。感謝して、そうさせていただき、イエス様の与えて下さろうとしている救い、祝福に与かる者とならせていただこうではありませんか。 中谷建晴 |