聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会
聖書一日一章

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」 (マタイ20:28)

今日のマタイの福音書20章では、神様の恵みが一方的なものであることとイエス様がその一方的な恵みを具体的に実現するお方である、ということとを読み取ることができます。
1節から16節までの、イエス様の語られた例え話では、神様の恵みが一方的なものであるということが語られています。私たちは神様からの恵みや救いを、自分たちの努力や働きの当然の報いとして考えてしまいがちですが、全ては神様の一方的な恵みによるものなのです。
17節以降では、イエス様が私たちの救いのために、十字架刑に処せられるためにエルサレムに向かっているのに、弟子たちがそのことを全く理解していなかったことがわかります。20節から21節のゼベダイの子どもたち、ヤコブとヨハネ、の母親の願いは、おそらくはイエス様がエルサレムに行って王様になるという期待に基づくものであった、と考えられます。24節では他の弟子たちがこのことを聞いて腹を立てていますが、それは、実の所、彼らも同じ願いを持っていたからである、と考えられます。こういう弟子たちの誤解に対するイエス様のお答えが25節から28節です。
イエス様はご自分の目的がいのちを与え、仕えるためであること、そしてイエス様の弟子たちも仕える者であるべきことを語られます。
29節以降の出来事はイエス様が仕える者として歩まれたことを改めて確認させてくれるものであったと言えるでしょう。
イエス様は私たちが仕える者となることを願っておられます。もし私たちの内側に妬みや怒りがあるのならば、それは仕えることではなく、仕えられることを、自分が偉くなること、自分が注目されることを求めているからではないでしょうか。そこには、イエス様にある本当の喜びはありません。私たち自身はどうなのか、もう一度、自らの在り方を顧みさせていただきましょう。

中谷建晴




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