聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』」 (マタイ5:3) 今日のマタイの福音書5章から7章までは「山上の垂訓」と呼ばれる、イエス様の説教の中でも特に有名な説教です。この「山上の垂訓」の中心的なテーマは「天の御国」で、どういう人が「天の御国」、いわゆる天国に入ることができるか、神様の祝福に与かることができるか、ということをここでイエス様は語っておられます。 今日の5章では、1節から16節までで、全体的なことがまとまった形で述べられ、17節以降では律法を守るということが、どういうことか、ということが述べられています。ユダヤ人は律法を守ることで、自分たちは天国に行くことができる、神様の祝福に与かることができる、という風に考えていましたので、このことには特に重要な意味があったわけです。 22節や28節などを見ますと、イエス様のおっしゃる本当の意味で、律法を守ることなど私たちにはとてもできない、ということがわかりますが、そういう自分であることを認める所から、神様との正しい関係が始まるということがこの5章全体を通して言われているわけです。 3節に戻ると、心の貧しい者こそが天国に入ることのできる幸いな者だ、ということが言われています。自分が律法を守り、神様の望まれる生き方などできない弱く、罪深い者であることを認めて、神様の前にへりくだる者こそが天国に入ることができる、ということが言われているわけです。 4節では、そういう自分の罪深さや弱さを心から嘆く者こそが幸いである、ということが言われています。私たちは自分の罪深さや弱さは認めるものの、それが自分だ、という風に開き直ってしまっているようなことはないでしょうか。そういう態度でいる限り、神様の祝福はとどかない、ということがここでは示唆されているわけです。 5節や7節、9節ではそういう神様の前にへりくだる者は、また人に対しても攻撃的であったり、冷たくしたりはしない、また、できない、ということが示唆されています。人に対する態度の背後には、神様に対する態度があるのです。もう一度、自分自身の人に対する態度、また、それを通して、自分の神様に対する態度を顧みさせていただき、真に謙遜な者、そうして天からの祝福に与かる者にならせていただこうではありませんか。 中谷建晴 |