聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「『今はそうさせてもらいたい。』」 (マタイ3:15)

今日のマタイの福音書3章では、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマ、洗礼、をお受けになった次第が記録されています。
1節から12節では、バプテスマのヨハネがどういう人物であり、どういう働きをしていたのか、ということが述べられています。
7節から12節では、ヨハネが当時の宗教的な指導者たちが形だけの洗礼を受けようとしたのを拒んだことが記されています。8節の「悔い改めにふさわしい実」とは、9節などを見ますと、何よりもまず謙遜さということかと思われますが、私たちも、パリサイ人やサドカイ人たちがそうであったように、自分で自分をよしとしたり、自分はこういう人間だ、とどこかで開き直ってしまい、悔い改めようとしないままになっている、というようなことはないでしょうか。
13節以降はイエス様が洗礼を受ける際のヨハネとのやり取りです。ヨハネはイエス様とは親戚同志で、お母さん同志は特に親しくしていましたので、イエス様のことをよく知っていた、だからイエス様には、告白し、悔い改めるべき罪などなく、自分よりも清いお方だということがわかっていたので、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言ったと考えられます。しかし、イエス様はなすべき正しいことの一つとして洗礼を受けられ、ご自分を罪人の一人に数えられる者とされました。罪なき方が罪ある者であるかのように振る舞い、罪ある者の一人に数えられるようにされたことだけでも、大変な謙遜ですが、やがてイエス様は最も罪深い者として、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んで下さるのです。イエス様のその謙遜さのゆえに罪赦された者であることをいつも心に覚え、このイエス様にならって、自分を主張するのではなく、へりくだってただただ主に従う者とならせていただきましょう。

中谷建晴




Copyright© Sakai Ohama Christ Church All rights reserved.