聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会聖書一日一章

                      マタイ 20章

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
                     (マタイ 20:28)

 前章の終わりの「先の者があとになり、あとのものが先になることが多い」と言われたことの説明となる不思議な譬えが語られます。“朝早く一日1デナリの約束で労務者を雇ったぶどう園の主人が、12時、3時に同じようにし、5時ごろにも、仕事にありつけずぶらぶらしていた人に、お前もぶどう園へ行けと言った、しかし賃金を払うときには皆おなじ1デナリづつ払った”という譬えです。この世は仕事の労苦に対する報酬として賃金が払われると考えますが、イエスさまは仕事は主の御業にあづからせていただくこと、働くことは喜びであり報いは主の恵みである、と示されたのです。私たちも、仕事と報酬について同じように考えたいと思います。この世の価値観と主の価値観は違うのです。同じようなことがイエスさまのエルサレムへの旅でも示されます。イエスさまがエルサレムに上られると聞いて、弟子たちは、イエスさまがメシヤとしてご自分をあらわされ栄光と力を示される、と考えたようですが、イエスさまは、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるためだ、と語られ、人の上に立とうと思うなら人に仕える者となれ、と教えられました。また、主に何かを与えようしてやろうと思うよりひたすら求めることが大切だ、と奇跡の御業をもって示されました。主の価値観は人の価値観とは異なるのです。

                                唄野隆                      



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