聖書一日一章メッセージ集
堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。」(マルコ15:43) 今日のマルコの福音書15章では、とうとうイエス様が十字架にかけられ、亡くなられ、葬られた次第が記録されています。 10節に記されているように、ピラトは、祭司長たちがイエス様を処刑しようとする動機はねたみでしかないということに気付いていました。ですから、14節で一応、抗議らしきものはしていますが、結局の所、15節で記されているように、群衆から嫌われることを恐れて、イエス様が十字架につけられることを黙認することにしてしまい、その結果、2000年の間、使徒信条の中で、イエス様を苦しめた責任者として名前を唱えられ続けることになってしまったわけです。彼とすれば、一応、自分としても努力はしてみたけれども、ということになるのかも知れませんが、問われるのは、結局の所、どうしたのかということなのです。私たちはどうでしょうか。職場の人、近所の人、親や親戚に悪く思われるのが嫌で、或いは、夫や妻の機嫌を損じるのを恐れて、御心ではない、正しいことではないとわかっていながら、その御心ではない、正しくない方を選んでいるということはないでしょうか。 42節以降では、アリマタヤのヨセフという人物がイエス様の遺体を埋葬させて欲しいと思い切ってピラトに申し出たことが記されています。有力な議員でありながら、イエス様が十字架にかけられずに済むように力を尽くすこともしないで、今更何をしたところで、と人間的には思える所ですが、しかし、イエス様が復活されたことでこのヨセフの行為は意味深いものとなったわけです。人間的に考えれば、今更というタイミングンであったとしても、悔い改めて、思い切って、一歩を踏み出すならば、神様は赦し、受け入れ、用いて下さるのです。 中谷建晴 |