聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「『だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(ルカ9:23)

今日のルカの福音書9章では、まず1節から50節まででイエス様のガリラヤでの働きの最後がどのようなものであったかが記され、51節からはいよいよイエス様がエルサレムに向けて旅を始められたことが記されています。
この9章は、全体を通して、イエス様の弟子であるということがどういうことなのかということがテーマになっていると思われます。23節から26節はそのクライマックスのような箇所ですが、23節と26節で繰り返されている「だれでも」という言葉から、また、全体としてイエス様について行こうとしない者は、自分のいのち、自分自身を失う、と言われていることから、この9章で弟子について語られている内容は、イエス様を信じる者全てに当てはまるものである、ということがわかります。
1節から6節で、イエス様は神の国を宣べ伝えることが如何に緊急のことであるのかということ、また、イエス様に従う者は神様が必要を備えて下さることを信じて、神様だけを頼って歩むべきであることを語っておられます。
10節から17節のエピソードでは、弟子たちの果たした役割がどのようなものであったかが16節に記されています。私たちの役割もこのようなもの、神様ご自身の御業が現れる時、少しばかり手を貸してさしあげることがせいぜいなのです。にもかかわらず、神様のために自分で何かをしようとして結局、的外れなことをし、自分自身を苦しめているだけというようなことはないでしょうか。
23節から26節では、自分自身を否定することなしに、イエス様の弟子となることはできない、ということが言われています。にもかかわらず、自分がやりたいと思うから、自分にとって居心地がいいから、あるいは、そうではないから、とどこまでも自分が中心、自分が基準になっていること、イエス様が何を望んでおられるかよりも、自分を大切にしているようなことはないでしょうか。そういう者はいのちを失うというのです。もう一度、自らの在り方を顧みさせていただきましょう。

中谷建晴



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