聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ7:23)

今日のルカの福音書7章では、イエス様が旧約聖書で予言されて来た、メシヤ、救い主、であるということがその行っておられることを通してますます明らかにされて来た時のことが記されています。
1節から10節では、当時、ユダヤを支配していたローマ軍の現場責任者とでもいうべき立場にあった百人隊長がイエス様に対する深い信頼を表し、イエス様がそれを喜び、その信頼に応えられたことが記されています。このことはユダヤ人以外の者、異邦人にも救いが及ぶ、というイザヤ書14章1節、56章3節・6節などの予言の成就であったと言えるでしょう。
続いて、今日のルカ7章11節から17節では、イエス様が死人をよみがえらせたことが記されています。しかし、なおバプテスマのヨハネでさえ、イエス様がメシヤ、救い主であるということを信じきれなかったということが、続く18節から20節を見るとわかります。22節でイエス様がおっしゃっておられるように、イエス様のなさっておられることからすれば、イエス様こそが救い主、メシヤ、でいらっしゃるということは明らかではないか、と思われます。しかし、マタイ11章2節や14章3節から4節を見るとわかるように、正しいことを言ったがために、牢屋に入れられていたバプテスマのヨハネにとっては、イエス様が自分に加えられている不正に対して何もしようとしない、自分を牢屋から解放してくれない、ということが大きなつまづきとなっていたのではないかと想像されます。しかし、イエス様はご自分が、バプテスマのヨハネ以上に、不当な仕打ちを受けることを通して、全人類の罪の贖いを成し遂げようとされておられたわけです。そういう面においても、ヨハネはイエス様の先駆けとなったわけです。イエス様のご計画は、イエス様の御心はヨハネの理解を越える所にあったわけです。
私たちもこの時のバプテスマのヨハネと同じ様に、なぜ神様はこの状態をそのままにしておかれるのか、と悩み、つまづきを覚えることがあるかも知れません。しかし、神様の御心は私たちの思いを越えた所にあることを覚え、なおも神様を信じ抜き、神様の備えて下さっている私たちの思いを越えた祝福と恵みに与かる者にならせていただこうではありませんか。

中谷建晴



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